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トピック:忍者 アドベンチャービタミン~Yu-ponの日本旅のヒント~

甲賀衆

koka ninja (illustration)

 伊賀と山1つ挟んだ甲賀は京都から約50㎞の距離にあります。午前は農作業、午後は忍術修行に励む小領主、豪農集団が同名中という血縁を中心に独立性の高い惣を形成していました。特筆すべきは甲賀地方の問題を甲賀五十三家と呼ばれる戦国時代ではめずらしい合議集合体で運営処理していたことです。

 甲賀忍者の名を轟かせた戦いが1487-1489年にかけて行われた鈎の陣であった。甲賀郡の地方領主六角氏を室町幕府、9代将軍足利義尚(よしひさ)が2万の軍勢で討伐しようとした戦いでです。

 六角氏を助けた甲賀忍者集団は、全ての軍を山中でのゲリラ戦、夜襲に引き込み、打ち負かしました。その際に受けた傷で義尚は病死したと伝わる。山中の霧・夜霧を自由自在に操り、100人以下の集団が2万の軍勢を苦しめ、最後には勝利したことで忍者の存在を日本中に印象付けた戦でもありました。

 甲賀53家の有力忍者、伴一族は渡来人の末裔で、薬学の知識に優れていたので、甲賀では薬草からの薬の生産も有名で薬行商が行われていました。

また、和妻(手妻)と呼ばれる日本独自のマジックにも優れており、忍術にも幻術・変装術や瞬間トリックの術が応用されたことは推察できます。馬を呑み込む呑馬術は飛び加藤(加藤段蔵;戦国時代の優秀な忍術を使った忍者)や果心居士(室町時代末期の幻術師)が使ったとの伝説があり、江戸時代にも和妻士塩谷長次郎がこの術を使ったといわれています。YouTubeでも伝統的な和妻の術を現代版和妻としてみることができます。

 戦国時代、甲賀は合議制による決定による近隣の戦闘への傭兵参加によりその名を広めていきました。伊賀衆と違い、織田信長に反する勢力に加担しないことにより信長の傘下、続いて秀吉に従属し、改易されました。これにより大部分の甲賀侍は武士化したが多くは農民化していきました。

 甲賀忍者から鉄砲の技術で大名まで登りつめた滝川一益みたいな忍者もいたようです。

徳川時代には、甲賀衆は鉄砲隊として幕府に用いられました。

伊賀・甲賀忍者の条件

ニックおじさんは伊賀・甲賀忍者には以下のような条件が忍術を支えたと考えていようです。

  1. 紀伊半島は京都に近いが、中央を山脈で仕切られ下部は平安時代からの仏教寺や修験道の聖地よりの関係から皇室との関係が深く、大名勢力が手を出せなかった。
  2. 政治的風土として武装農民としての侍豪士が集団合議制により自治をなしていた。その為、郷土自衛のための山間部ゲリラ戦・夜戦・諜報活動に特化した戦略と戦術が必要となり忍術として必要な古武術と独自の技術が発達した
  3. また、経済的にも傭兵として農業以外での収入の道を確保することも大事であった。このことが益々、忍術の隆盛に輪をかけたといえる。
  4. またこの地域は外国貿易の港に近く、平安時代から戦国時代にかけて諸外国の発明品や技術に触れる機会が多かった。そのため薬学の知識や鉄砲・大砲・火薬などの新兵器を先んじて利用する先進性があった。分身の術といったイリュジョン的な忍術も小なるも大をたおす方法として懸案されたものとして考えることができる。

➪甲賀忍者の観光地