有名忍者衆①:伊賀
伊賀衆

京都から直線にして50km、街道沿いに66km、途中に山並みが続くところに伊賀上野市があります。
この地には飛鳥・奈良・平安時代に中国、韓国から渡来した渡来人が甲賀とともに移り住んだ伝説があります。伊賀・甲賀は、土地は山に囲まれた痩せた土地であり、両地域とも、興福寺や東大寺(奈良時代に建てられた世界遺産に登録された歴史的建造物が有名な寺院)の所領地であり、寺社院の改築用の木材の供与など両寺との地縁関係が深く、また天皇家の狩場及び薬草の採集場としても有名です。
紀伊半島南部同様に外的勢力を排除し領主がいない惣国(日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織、村落形態を指す)という独自の地域社会を作り上げていきました。
伊賀の忍者制度は、上忍・中忍・下忍との階級に分かれており、上忍は百地・藤林・服部の伊賀の土豪三家でその下に中忍と下忍が組み込まれていました。

戦国時代には各国の諸大名からの要請による忍者派遣業として生業を立てていました。上忍は下忍の子弟と近くの農村から買い入れた子供を、厳しい忍者修行をさせた後、下忍として派遣していました。修業はオリンピックのメダリスト以上の激しさで3-4歳から始まり、その修行を耐え生き残る下忍は非常に少なかったようです。
大名からの要請内容は、戦の前には敵国内の道筋、距離、難儀度、大軍の通行可能性など進軍に関する情報、敵の要塞である城の内容、井戸の位置、米の備蓄量、防御施設の情報を取ることであり、戦さ中は ゲリラ戦・夜討ち・城に潜入しての破壊活動などが仕事内容でした。
ご存じのように三重県の西方は和歌山県がありますね。ここも雑賀衆を中心とした惣国地域として有名であり、外国(南蛮)貿易で繁栄していました。
1543年種子島に鉄砲が伝来し、紀伊半島南西部で惣勢力を誇っていた根来衆が鉄砲鍛冶を養成し、国内での鉄砲生産を始ました。
鉄砲の火薬を外国から輸入する事ができた雑賀衆は、根来衆と結託して鉄砲傭兵隊として名をはせていました。伊賀・甲賀でも、特に甲賀は鉄砲技術の鍛錬を忍術に取り入れていきました。また、伊賀でも火薬を使った忍法が独自の技法として展開されました。
伊賀衆も鉄砲傭兵としても優秀で、無敵を誇っていました。比叡山と織田信長の争いで比叡山に加担して石山寺の戦で信長をあと一歩のところまで追いつめた記録があります。後に織田信長に伊賀に攻め込まれ壊滅的なまで郷土を蹂躙されました。
忍者の力をよく知っていた徳川家康は上忍の服部家を家臣に加え、「本能寺の変」を機にした最大の危機がありました。その時、伊賀・甲賀衆の助けにより安全に京都近隣飯盛山から伊賀の山地を超えることができました。有名な家康の『伊賀越え』です。
海岸線まで出た後、船で駿河まで船で変えることができました。後に家康が天下を取ったときに伊賀・甲賀は家臣として徳川幕府に組み入れられるものが多かったようです。
